日々目まぐるしく変化していく現代社会において、世界や国内の情勢を正しく見極めるために知っておきたい教養こそ「地理」「歴史」「公民(政治経済)」と感じている方も少なくないのではないでしょうか。
「オトナのための教養が身につく! 日本の地理・歴史・公民」では、スタディサプリの社会科講師を務める伊藤賀一が、義務教育課程の内容にプラスアルファした情報を分かりやすく解説。イラストや図版つきのオールカラーでしっかり学べる”教養書”となっています。これからの社会を生き抜く上で必須の知識を、「オトナ」だからこそ学び直したい時に役立つ一冊です。
第二回の本記事では、第二章の「歴史」から、鎌倉幕府が開かれるまでの400年間「平安時代」についてご紹介していきます。
平城京と平安京の違い
784年、桓武天皇は仏教勢力から離れて政治を刷さっ新しんするため、平城京から長岡京に遷都しました。しかし、造営の責任者が暗殺されるなどしたため、794年に平安京に遷都しました。「外京(げきょう)」がなく、寺院が東寺(とうじ)と西寺(さいじ)の2つのみという点などが平城京と違っています。平安京に遷都されてから、鎌倉幕府が開かれるまでの約400年間を平安時代といいます。
蝦夷を征討する征夷大将軍
この頃、朝廷の支配はまだ東北地方全体には及んでいませんでした。朝廷に従わない東北の人々を蝦夷(えみし)といい、しばしば衝突していました。桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、征討させます。田村麻呂は蝦夷の族長・アテルイを降伏させました。彼はアテルイの助命を嘆願しますが、聞き入れられず平安京で処刑されました。
律令国家の限界
平安時代初期、桓武天皇は蝦夷平定や平安京造営を進めつつ、政治の引き締めに熱心でした。息子の嵯峨天皇は、律や令(りょう)を補足する格、施行する際の決まりである式もまとめました。
しかし、10世紀に入ると班田収授すら行われなくなり、まもなく律令国家体制は崩れます。朝廷は一定の税を収めさせる代わりに、国司に地方政治を一任するようになりました。
何事も仏に祈れば万事解決
平安時代の初めには、仏教に新たな動きがありました。遣唐使として唐で学んだ最澄(さいちょう)が近江国(現・滋賀県)の比叡山延暦寺を拠点に天台宗を、空海が紀伊国(現・和歌山県)の高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)を拠点に真言宗を開いたのです。これらの平安仏教は、主に皇族や貴族の信仰を受けました。
また、日本古来の神と、インド由来の仏を同一視する神仏習合の考えが、仏教優位の状態で広まりました。これを本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)せつといい、例えば「天照大神(あまてらすおおみかみ)は大日如来の仮の姿」とされました。平安時代初期に多く像が作られた、人々を救いへ導いてくれるとされる不動明王も、もともとはインド神話に登場する三大神の1人「シヴァ神」だとされています。
〈不動明王像〉