あなたは「いい写真」と聞いてどのような写真を想像するでしょうか。人によってその定義はそれぞれです。なかなか思った通りには転ばない偶発性も写真撮影の面白さですが、結果的には「撮影者の伝えたい事柄がしっかり伝わる」写真が「いい写真」といえるのもかもしれません。
「いい写真を撮る100の方法」では、スナップ写真を中心とした100点の写真について、撮影意図や撮影時のエピソードを交えながら、表現力を鍛える視点や思考法について解説。撮影者として他者に自身の感動やその場の空気感、興味の対象を伝える写真表現に向き合う姿勢を学べる内容にまとまっています。
本記事では第4章「構図を制する者が写真を制する」より、「余白」と「空白」を意識した表現について解説します。
余白や空白にあるべきものを想像させる
乾いた石の庭に水を想像させたり、昔の日本人はずいぶんと前衛的だった。そうして左右非対称で余白や余韻のある世界を、多くの美術、工芸、建築が表現や意匠に取り入れてきた。
僕もその影響は少なからず受けており、構図で余白を意識することは多い。この写真は石巻市の南浜で撮ったもの。東日本大震災ではここで500人以上が亡くなった。震災の2か月後にボランティアで訪れると、崩れた家屋や潰れた車がそのまま残っていた。4年後再訪すると一帯は草むらになり、瓦礫の中では存在感のなかった2本の松が、鎮魂のモニュメントのようにそびえ立っていた。間には小さなお稲荷さん。そこにおじいさんが自転車でやってきて、手を合わせた後、タバコに火を着けた。やはり震災で家族や友人を失ったのだろうか。
おじいさんに声を掛けようかと思ったが、近付いたらこの悲しさや侘しさは写らない。僕は後ずさりし、乾いた空を広く写し込んだ。後で写真を見返すと、左の木には鳥の巣が見える。周りで多くの命が失われ、自らも朽ち果てようとする松で、小さな暮らしが始まっていた。
このときファインダーをのぞいていて、ふと水墨画の最高傑作とされる長谷川等伯の「松林図屏風」が思い浮かんだ。墨で数本の松を描いただけのシンプルな絵だ。印象的な光景を目にすると、日本の古い美術作品が浮かぶことは多い。
それらが記憶の箱に収められる源は、見る者に想像させる余白だと思う。余白にあるべきものを想像することで、作品は脳裏に刻まれる。そして近しいものに遭遇したとき、その引き出しは開かれるのだ。