ドキュメンタリー撮影問答
第2回

ドキュメンタリーとして「何を」「なぜ」撮るのか?

ドキュメンタリー映画や劇映画のカメラマン・撮影監督として活躍している辻智彦さんの「ドキュメンタリー撮影問答」は、カメラマンから映画監督、出演者、写真家、番組プロデューサーなど様々な立場から映像制作に関わる業界人11名へのインタビュー集です。

「ドキュメンタリー」をキーワードに展開する問答では、インタビューが進むにつれて各人が持つ信念や詳細な方法論、時には意外な本音も飛び出します。それぞれ異なる立場から各々の領分について語る対話の中で読者が目にするのは、その道のプロにしか到達しえない領域、伝えたいテーマをいかに表現するかに心を砕く、クリエイターたちの姿です。

本記事では序章「ドキュメンタリービデオを撮るということ」より、ドキュメンタリーにおける撮影と、ドキュメンタリーとして「何を」「なぜ」撮るのかに関する論考を抜粋して掲載します。

>この連載の他の記事はこちら
>前回の記事はこちら

ドキュメンタリー撮影問答

置き去りにされてきたドキュメンタリー撮影における問題意識

前記の1~5では、近年のデジタルビデオの進化によってもたらされた、どちらかといえばメリットについて多く触れた。その一方で、技術革新の影で置き去りにされたドキュメンタリー撮影における問題意識があると思う。それは、僕なりにいうと「撮影するということの意味を考えること」と「撮影する相手とどう向き合うかということ」だ。

撮影するということはただ記録するということではない。「創造的に記録する」ということだと僕は思っている。無限に広がる世界の時間と空間の中から、任意の時間と空間を、独自の視線の角度で、独自の手つきで取り出す作業だ。そこでは己の「世界を見る見方」が問われるのだ。

また、撮影する者が撮影される者を見ているのと同じように、いや、もしかしたらそれ以上に撮影される者は撮影する者をよく見ている。撮影する者の態度が厳しく問われるのもドキュメンタリー撮影の絶対条件だ。機材の選択についても、大きいショルダーカメラで相手を撮るのとスマートフォンの動画機能で相手を撮るのでは、相手の態度がまったく違うだろうことは誰でも想像できるだろう。

つまり、手に持つ機材ひとつでも、こちらの撮影技法上の狙いだけでなく、相手にどう見られるか、もっと積極的にいえば、相手のこちらに対する態度をどういったものにするのかということまで含めた表現意識が必要になる。解像度やフォーマットなど、機材のスペックとはまったく違った視点で、選択した機材の社会的な存在のあり方までを視野に入れて考える感性が必要になってくるだろう。これらの問題意識は、予備のカードやバッテリーとともに、常に自分の心の中に忍ばせておきたいと思っている。

なぜそれを撮りたいのか?「なぜ」の質が作品の質を決める

想像してみる。実際にドキュメンタリーを創るにあたって、いよいよデジタルビデオカメラを手にした僕は、いったいなにが撮りたいのだろう。家族?友達?それとも自分自身?あるいは何かしらの縁のある出来事や場所、興味深い意中の人物だろうか。もちろん他人が僕に向かって何を撮るべきだとか、誰を撮ったほうがいいとか言うことはできない。僕自身が興味を持ったものを撮ればいいのだ。

撮る対象が決まったら、今度はそれを作品としてまとめる準備が必要だ。まとめる準備といっても、何か決まったやり方やフォーマットがあるのではない。作品を作るにあたっての方向づけや心構えといったものだ。きっちりとシナリオや構成台本を書くのもいいだろう。あるいは漠然と、あの人のあんな表情が見たいなあといった希望でもいい。自分とはどういう存在なのだろうと、自分自身に問いかける問いを磨くのもいい。あるいは直感的にこの人の行く末を見つめていきたいといったものでもいいと思う。

そこで大事なのは、なぜそれを撮りたいのかを常に自分に問いかけること。「なぜ」の質が、作品の質を決めるといっても過言ではない。作品を撮る人の切実さが作品の切実さに、撮る人の熱い思いが作品の熱さに結晶していくからだ。思いつきで作ったものは思いつきの質になってしまう。しかしその思いつきが物事の本質を捉えた鋭い洞察だったなら、作品は鋭い洞察を含んだものになる。ドキュメンタリーとは、作る人の本性をさらけだすという意味でのドキュメンタリーでもあるのだ。

撮る対象はなんでもいい。興味のおもむくままでいいだろう。しかし同時に、その興味の理由を深く考え続けながら、悩んだり迷ったり、喜んだり怒ったりしながら、被写体を記録すると同時に、自分の心の動きも記録するようにカメラを廻していくのがドキュメンタリー撮影の核心だと僕は思う。

例えば美しい風景を撮るということは「美しい風景」だけを撮ることではなく、美しさに心を動かされ、思わずカメラを廻した自分自身の感動が記録される。腹立たしい人物を撮ると、その人物の悪行だけでなく、それに憤った自分の怒りが記録されるのだ。自分自身を撮ろうが、赤の他人を撮ろうが、そこに写っているのはまぎれもなく自分自身のこころの動きだ。これはドキュメンタリーの撮影を続けてきた僕の迷いない実感だ。作品の質を高めるために自分自身の質を高める努力をするといってもいい。自主制作で作る意義はそこにあると思う。


ドキュメンタリー撮影問答

関連記事