日々目まぐるしく変化していく現代社会において、世界や国内の情勢を正しく見極めるために知っておきたい教養こそ「地理」「歴史」「公民(政治経済)」と感じている方も少なくないのではないでしょうか。
「オトナのための教養が身につく! 日本の地理・歴史・公民」では、スタディサプリの社会科講師を務める伊藤賀一が、義務教育課程の内容にプラスアルファした情報を分かりやすく解説。イラストや図版つきのオールカラーでしっかり学べる”教養書”となっています。これからの社会を生き抜く上で必須の知識を、「オトナ」だからこそ学び直したい時に役立つ一冊です。
第五回の本記事では、第二章の「歴史」から、江戸幕府の始まりについてご紹介していきます。
家康が関ヶ原の戦いを制す
豊臣秀吉が亡くなると、幼い息子の秀頼が残されました。かつての織田信長の同盟者で、秀吉が天下人になると臣従した三河国(現・愛知県)出身の徳川家康は、権力を集め始めました。これにより、秀吉の忠実な部下である石田三成と対立が深まります。1600年、これによって始まったのが関ヶ原の戦いです。東軍の家康は事前に工作をしており、西軍の小早川秀秋が裏切ったこともあり、「天下分け目の戦い」はたった数時間で家康の勝利に終わりました。
勝手に結婚すると御家断絶!?
1603年、家康は征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれます。江戸時代の大名には、将軍家の親戚である親藩、古くから家康 に仕えた譜代(ふだい)、関ヶ原合戦の前後から家臣になった外様(とざま)があり、特に外様大名は江戸から遠くに配置されました。また、家康は武家諸法度(ぶけしょはっと)という決まりを定め、大名家同士の勝手な結婚を禁止するなど、厳しく制約しました。これに違反した大名は、領地を削られたり(減封)取り上げられたり(改易)しました。
〈家康時代の江戸幕府の役職〉
参勤交代と豊臣家滅亡
江戸幕府は、諸国の大名に対して、1年ごとに領地と江戸を往復させて忠誠のあかしとしました。これを参勤交代といい、多くの家臣を連れた大名にとって、大きな財政的負担になりました。
また大御所の家康と2代将軍秀忠は、1614~15年の「大坂の陣(冬の陣・夏の陣)」で大坂城にいた豊臣秀頼と母の淀殿を攻め、豊臣氏を滅ぼしています。
朝廷や寺院も支配した江戸幕府
江戸幕府の支配は、大名だけでなく皇室や公家、寺院にもおよびました。禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は朝廷や公家を統制する決まりです。天皇は学問に励むのが第一の仕事とされ、政治権力は否定されていました。 また、中世に大きな力を持っていた寺院の力を削ぐため、寺院法度も制定されました。