1971年に手塚プロダクション初のテレビアニメとして放映された『ふしぎなメルモ』。天国のママから、ミラクルキャンディーをもらった主人公メルモが、キャンディーを食べて赤ん坊から大人、さらには人間以外の様々な動物に変身し、危機を乗り越えて成長する物語だ。
『ふしぎなメルモ トレジャー・ブック』は、これまで幻とされてきた手塚自身によるアニメ用の画稿を中心に集成した初のヴィジュアルブック。2014年に手塚の仕事部屋の“開かずのロッカー”から発見された原画を含む貴重な画稿と関連資料、さらには手塚が番組のために描き下ろした図解カラー原画、原作漫画の全集未収録エピソード14本を、過度な補正を施さない生原稿の状態で掲載している。
本記事では、『ふしぎなメルモ』の制作担当だった下崎 闊氏に、当時のエピソードや手塚治虫の思い出を語っていただいたインタビューを抜粋してお届けする。
『アポロの歌』から『ふしぎなメルモ』へ
─────『ふしぎなメルモ』(71年)の企画はどのような経緯で立ち上がったんですか。
下崎:私がスタッフに入った時点で、すでに西崎義展氏が、朝日放送と『メルモ』の前企画となる『アポロの歌』2クールの話を取り付けていました。手塚先生は1971(昭和46)年の6月に虫プロの社長を辞められたんですが、その前の月に、先生から「手塚プロに来て、プロデューサーをやってくれないか」という電話をいただいて、もう、有頂天になってすぐに虫プロに退職願を出しました。手塚プロは、漫画制作のためのプロダクションとして、虫プロとは別にそれ以前から存在していたんですが、今度は新たにアニメを作ることになって、それが『アポロの歌』だったんです。
─────そのプレゼン用に制作されたのが、現存するパイロット版ですか。
下崎:いや、あれはプレゼン用ではなくて、放送することが決まったあとに、やっぱり、局にパイロット版くらいは見せとかなきゃいけないだろうってことで、先生のアイディアをもとに、急遽作ったものです。雑誌で連載されていた『アポロの歌』の絵を使って、ちょこちょこっと作っちゃったんですよ。
西崎氏が『アポロの歌』のタイトルで企画を決めてきたからなんですが、テレビ局から、大人用のアニメはちょっと……という反応があったので、その後『ママァちゃん』に変更になりました。ところが〝ママァちゃん〟という名称は、すでに版権登録されていたので、慌ててほかの名前を考えたんですが、〝花子〟をはじめとして、女の子の名前はほとんどが登録済みでした。ですから、改めてスタッフが集まって考えることにしたんです。その場にいたのは、当時マネージャーだったポンさん(平田昭吾)、手塚卓さん、斎藤ひろみさん、西崎義展さん、鈴木紀男さん、あと確か雑誌の編集者にも入ってもらったと思います。最初の1、2回の打ち合わせでは、ポンさんと卓さんがいくつか案を持って来たけど、いいのがなくて、3回目の会議の時に、先生から〝メタモルフォーゼ〟でどうか? と提案がありました。“Metamorphose”のスペルから取って〝メルモ〟に決まったんです。
正直、最初あまりピンと来なかったんですが、先生から「聞き慣れれば、いい名前だから」と言われたので、渋々納得したんです。実際、面と向かって先生にダメと言える人はいませんから。私も心のなかで、変な名前だなと思いながらも、ほかの人には言いませんでした。
─────『メルモ』制作に対する手塚先生の意気込みはどのような感じでしたか。
下崎:新作アニメは久しぶりだったので、「全部自分でやりたい!」と言って、力を入れていらっしゃいましたね。だから、雑誌の連載を減らしたりしたんですが、もともと本数が多過ぎるので、1、 2本減らしたところで、状況はさほど変わらないんです。どうしても漫画が先で、アニメは後回しになっちゃう。
当時、虫プロ社内では、手塚の作品はもう売れないって噂が流れていたんです。だけど、私にはそれが疑わしかった。日テレの営業や他局のスタッフから、現場の皆さんが手塚作品を作りたがっているという話を聞いていたので。おそらく、虫プロの営業力が足らなかったのが問題だったんじゃないでしょうか。今思えば、その力不足の言い訳だったように思います。『ノーマン』のパイロット版を作っても、売りに行く人材がいなかったくらいですから。
常に綱渡りだった制作現場
─────『メルモ』のスタッフはどのようにして集められたのでしょうか。
下崎:最終的には先生の了解をもらう前提ですが、すべて私に一任されました。あとは、ポンさんや手塚卓さんら、気心の知れた人から推薦されることもありました。確か撮影の菅谷正昭さんは、鈴木紀男さんの紹介だったと思います。菅谷さんには、『南へ行ったミースケ』(71年)の時に撮影をお願いしていたんです。作画に関していえば、スタジオジョークの永樹凡人さんは麻雀仲間でしたし(笑)。彼の仕事場は、2階がスタジオで、1階が雀荘だったんです。その後、彼のスタジオが傾きかけたので、その際には、スタジオテイクの正延宏三さんに頼んで引き継いでもらいました。正延さんとは、虫プロ時代に『あしたのジョー』(70年)で、同じ釜の飯を食った仲でしたから。
以前、永樹さんが『メルモ』の取材で自分がチーフディレクターを務めたのは番組後半だったと証言していますが、あれは彼の勘違いです。彼が担当したのは前半でした。それは記録として残っているんですよ。
─────当時の制作現場はどのような感じでしたか。
下崎:最初はちゃんとスケジュールを組むんですが、先生からの指示が遅れて作画期間が3日しかないなんてこともざらでした。そうなると、その3日間で「一人1カットでも2カットでもでもいいから描いて!」と、外注スタッフに頼むわけです。それこそ、いざとなれば百人ぐらいの外注さんをフル稼働させて作画にあたる感じでしたね。
あれはお正月の頃の放送回だったかな。12月に入っても、先生にチェックを出していた台本が上がってこなくて、最終OKが出たのが、放送日の1週間前でした。アフレコの前日だから、当然、絵なんかないですよね。そうすると編集さんから白味(アニメーションのアテレコの際に絵が間に合わず、アテレコのために長さだけ合わせてフィルムにつながれた白い部分のこと)を借りて来て、絵コンテのカット表を作り、そこに秒数を入れて、ダーマトグラフで印をつけたり、ハサミの先で「メ・ル・モ」って読めるように印をつけて、尺を指示したものでアテレコをしてもらったんです。そんなんじゃ、声優さんはやりにくいし、怒りますよね。ある日、録音スタッフから電話で「声優が全員、降りる、こんなんじゃもう出来ないと言ってるよ」と連絡があって。
─────その場はどうやって収めたんですか。
下崎:最後は手塚先生ですよ。「手塚先生の作品なので、そこをなんとかお願いします」と伝えて納得して頂けました。
─────通常は一話をどのくらいの期間で制作していたんでしょう。
下崎:一人の進行さんが1ヶ月1本引き受けて、4人で1ヶ月回すスケジュールです。でも、実際は先生のチェック段階で遅れるので、1本遅れると自動的に次の回も遅れるわけで。そういった意味で『メルモ』の制作は常に綱渡りでしたね。
『ふしぎなメルモ』の制作スタッフたち
─────スタッフには、実にいろんな人が集まっていますね。例えば、作画では中村和子さんのクレジットがあります。
下崎:実は、この作品で和子(ワコ)さんは使っちゃいけなかったんです。私が虫プロから手塚プロに呼ばれた時の条件として、先生から「虫プロ関連のスタッフは絶対に使うな、迷惑かけたくないから」と言われていて。だから、和子さんをはじめとする虫プロ関連のスタッフは使わない約束だったんです。
ええっと……、順にお話しすると、オープニングを作る時に、先生はやっぱり(自分で)やりたくてしょうがないわけですよ。で、私が朝9時に出社すると、先生が動画用紙の束を持って階段に腰掛けて、待ち構えているんです。オープニングの花の蕾がひらく場面でした。漫画の原稿が明け方に終わった後に描き上げて、私の出社を待っていたようなんです。「見て、いいでしょう?」と動画用紙をパラパラ見せてくれました。本当は全部自分で動かしたいんですね。でも、すべてを自分で描く時間がないから、そのあとこっそり和子さんに頼んだようです。具体的には、オープニングの赤ん坊がハイハイしながら歩くシーン、あそこは和子さんの作画ですね。これは随分あとになって、和子さんから聞いた話です。私には虫プロ関連のスタッフに頼むなと言っていた手前、直接お願いしたようです。
─────中村さんには絶大な信頼を寄せられていたようですからね。
下崎:ええ。ただ、ひとつ残念なところがあるんです。冒頭の蕾がひらくシーンの花びらですが、1枚ずつ色を少し変えれば、ひらくところが自然に見えたんですよ。ところが時間がなかったために同じような色で塗っちゃった。私も忙しくてチェック出来なかったんですが、あれは非常に残念でしたね。
─────エンディングについてはいかがでしょうか。
下崎:絵コンテからすべて先生の手によって、自身の思うように作られたものですね。
─────キャスティングについてはどのように決められたのでしょうか。
下崎:グループ・タックの明田川進さんにお任せです。私は代表の田代敦巳さんを大尊敬していましたから。餅は餅屋で、お任せすればいいと思って。実のところ、私は進行管理が大変で、それどころじゃなかった(笑)。
─────主題歌についてはいかがでしょう。
下崎:主題歌は、宇野誠一郎さんが作曲した曲を譜面で受け取って、それを先生がピアノで弾くのを聴かせてもらいました。私は、聴いた時に、う〜ん……ちょっと難しい曲だな、と思ったのを覚えています。ただ、今になってみればとても良い曲だとわかります。岩谷時子さんの歌詞がまた、すごいですよね。最後のストーリーがまだ決まってない段階で依頼したのに、3番でメルモがお嫁さんになる。岩谷さんはなぜ(結末が)わかったんだろう?それとも、先生が歌詞を意識して、最終回でメルモを結婚させたのか。いまだにそこが謎ですね。
─────手塚先生は気に入っていたんでしょうか。
下崎:もちろん。だから、わざわざ私に聴かせたんだと思います。その時のことはよく憶えています。「曲が出来たよ!」って、母屋の方から声がかかって、行ったら「ちょっと弾いてみるね」と言ってピアノで弾いてくれたんです。
─────本編の制作体制について伺えますか。
下崎:スタート当初は、先生も原画を描かれています。レイアウト原画(注1)も何話分か。物語に関しては、スタート当初は基本的に先生のアイディアをそのまま採用して、中盤からは脚本家を立てて、台本に仕上げてもらっています。第1話なんて、話が3つぐらい入った盛りだくさんな感じでしょう。
─────驚くほどのスピーディな展開で、情報が詰まってますね。
下崎:1話だけで、3話分見たような。ちょっと疲れるけど(笑)。でも、あれこそ先生の作品ですよね。中盤から脚本を依頼することになったものの、先生はストーリーにあれこれ口出ししたいんです。実はそれが大変でして。先生の漫画原稿が終わるまで、演出スタッフを部屋の外に待たせておいて、漫画原稿が終わった午前3時頃に、一人ずつ呼んで打ち合わせをしました。その間、私が横について、録音するんです。先生が「ここがこうなって、ああで……」と、テープのAB面1時間ぶんくらい話されて、そのテープを演出家に渡すんですね。そして、それをもとに台本を書き上げてもらっていました。
─────先生の口からは物語が、淀みなく出てくるんですか。
下崎:物語は、常に頭のなかにあるんですよ。いくつものアイディアがあって、絵の完成形も出来てる。だけど、それを絵にするのが追いつかないんです、時間がないから。でも、アイディアだけはどんどん出てきました。
─────上がった台本も先生がチェックされるわけですよね。その時は結構赤字が入るんですか。
下崎:それについては逸話があります。ある日私が、「先生、今日は演出家と打ち合わせがあるので、台本を読んでおいて下さい」と言って、机に台本を置いたんですね。でも、いつまでたっても読んだ形跡がない。しびれを切らせた私が、つい「先生、申し訳ないけど、その台本に目を通して置いてください」って言っちゃったんです。そしたら、仕返しをくらっちゃった。
─────仕返しとは。
下崎:打ち合わせが始まったら、何も見ないで「●ページのセリフはこう、●ページのあそこはこう直してください」って始めちゃって、「その次のページは……」って話を続けて。読むヒマなんかなかったはずなのに、先生はいつの間にか、あっという間に読んでいた。以来、何も文句言えませんでした。先生は、今でいう速読が出来たみたいですね。パッと見たらスーッと頭に入っていく。画像で記憶に残るらしいんです。
(注1)「不思議なメルモ」のアニメーションは、通常の絵コンテではなく、コンテと原画の中間の工程にあたるレイアウト原画をもとに制作が進められた。レイアウト原画(下図)はフレームの外にセリフや注意事項、各種指示が記されているが、『ふしぎなメルモ トレジャーブック』ではできる限り絵を大きく見せるためにフレーム内のみをトリミングして掲載している。
多忙ななか、現場でレイアウト原画を描いた手塚治虫
─────レイアウト原画は毎回手塚先生が描かれていたんですか。
下崎:レイアウト原画をもとにアニメーターが描けるよう、最初の頃は先生が清書まですべて一人で描いていました。ただ、後半になると先生も忙しくなって、池ポン(池原成利さん)に清書してもらっていましたけど。あの方はうまいですからね。当時、先生のタッチにすごく似ていたんですよ。ただ、最終的には先生のチェックを受けていますから、どこかしら先生の手が入っています。
─────多忙ななか、よくこれだけの枚数を描く余力がありましたね。
下崎:本当ですよね。先生がアニメの仕事をされるのは、雑誌の原稿が終わって、編集者が帰ってからでした。もう本当にギリギリまで待って、時間が出来たら、その場ですぐに描いてもらうって感じです。ただ、絵を描くスピードがものすごく早いんですよ。雑誌の原稿執筆が深夜2時か3時に終わるでしょう。その後に休む間もなく、取り掛かるんですが、例えば、今回掲載される図解のカラー挿画なんて、明け方までに全部描いちゃいますから。図解は1話につき、多い時は10枚くらいあったと思うんですけど、着色まですべて先生一人で描かれるんです。誰の手も借りない。なぜなら、その時間だと、アシスタントも帰っちゃって、仕事場には僕と先生しかいないですから。
─────アイディア出しからすべてですか。
下崎:カラー挿画がどういった内容になるかは、最初の絵コンテに書かれていないんです。つまり、先生の頭のなかにしかないので、その場でいきなり描き始める感じでした。本書に掲載される挿画は、すべて手塚先生の手によるものです。それは、私が保証します。
─────『メルモ』に関してはいろんなキャラクターグッズが出ていたようですね。
下崎:私の記憶では、放送当時そんなにあったかなって感じです。印象に残っているのは、スポンサーのマスプロアンテナぐらいですね。あそこの社長から、先生が描いた大人のメルモのキャラクター原画が欲しいって言って来たよと聞いたことがあります(笑)。グッズがたくさん出たとすれば、放送後かもしれないですね。
お面 |
弁当箱 |
朝日ソノラマ AM-31(1971年11月発売) A面「ふしぎなメルモ」 ドラマ「ゴリラのこもりうた」/B面「幸せをはこぶメルモ」 ドラマ「ゴリラのこもりうた」(つづき) ドラマ脚色:鈴木良武 |
─────『メルモ』の放送が始まって、視聴者からの反響はいかがでしたか。
下崎:先生は、思ったより問題にならなくて、拍子抜けしたみたいでした。これはある種の性教育ですから、先生は父兄から吊るし上げられてもいいと覚悟されていたようなんです。それこそ放送禁止を言い渡されれば、それを受けて立つ覚悟だったんでしょう。 先生は、ある時期に漫画のほうで悪書追放の攻撃をいろいろ受けていますから、『メルモ』を放送する時は、相当な覚悟で臨んだんですよね。ところが、そんな反発はまったくなかった。むしろ思ったよりも性教育への理解があって、ある程度評判がよかったくらいです。
─────手塚先生自身、出来栄えに関してはどう感じられていたのでしょうか。
下崎:常に「手直ししよう」とおっしゃってました(笑)。やっぱり直したいところがいっぱいあったし、時間が足りなくて、我慢したところがあったわけです。のちに、手塚プロダクションでリニューアル版が作られましたが、動きの悪いところとかを直すと思っていたら、実際はセリフの見直しと、音楽、音響の差し替えで、オリジナル版のスタッフの立場からして、とても残念でした。特に、宇野さんの音楽の差し替えは残念でしたし、ほかにも、例えば、「水色の恋(注2)」なんかは、レコード会社から提案されて挿入歌として使ったものなんです。そうした経緯で使ったものも消えちゃったわけで、正直がっかりしました。
ただ、先ほどお話した通り、白味でセリフの録音をやったために、途中で声優さんがやる気をなくしちゃって、少し棒読みになっている場面があるんです。だから、本当は同じ声優さんで、吹き込み直せれば良かったですね。
─────最後に、下崎さんのキャリアのなかで、『メルモ』はどういった位置づけの作品ですか。
下崎:手塚先生と関わった最後の作品ですし、すごく大切な宝というか、思い出の多い作品です。
(注2)1970年11月5日に、合歓の郷・屋内ホールで開かれた、第2回「ヤマハ作曲コンクール」で、藤田とし子によって歌われた「小さな私」(作詞・田上えり/作曲・田上みどり/編曲・生駒芳正)が、「水色の恋」と改題され、天地真理のデビュー曲になった。
下崎 闊(しもざき・ひろし)
「ふしぎなメルモ」制作担当 / 演出補佐
1965年虫プロ入社。以降、『W3』『リボンの騎士』などの制作に携わる。その後、手塚プロに移り『ふしぎなメルモ』を担当。アニメ制作プロダクションの日本テレビ動画の解散現場に居合わせたほか、日本テレビ版『ドラえもん』制作担当に携わったことでも知られている。
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