日本の化粧の変遷100年
第1回

人びとと化粧の歴史〜かつて化粧は男性権力者のものだった

「ファッションは時代を映す鏡」と言われているように、服装やヘアスタイル、メイクの流行も時代とともに移ろってきました。日本においては明治時代に欧米文化が伝来し、「お歯黒」や「引眉」などそれまで広く行われてきた化粧の様式が一度否定され、今日の化粧文化に連なる化粧品の研究開発も進み、大正時代には庶民の女性たちに西洋風の化粧文化が普及するに至りました。

日本の化粧の変遷100年」では、1920年代から現代まで、100年間にわたる化粧の変遷を写真とイラストで解説しています。各時代のメイクの特徴や、現代で再現するためのポイント、あると便利なメイク道具も紹介しており、メイクのアイデア出しや資料として活用できる一冊となっています。監修は資生堂ビューティークリエイションセンター。

本記事では研究者にお話をうかがいながら、人びとと化粧の歴史を振り返る特集を抜粋して紹介します。

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日本の化粧の変遷100年

暮らしの中で変化した化粧の社会的地位

現代では男性は女性ほど化粧に熱心ではない人が多いようだが、実は化粧が男性のものとされていた時代は長いと、石田氏は指摘する。それは化粧が大衆化される以前の、権力者などの特権階級が化粧を独占していた時代。

「歴史的にも地域的にも、男性が権力を握ることが多かった時代は、化粧は男性のものでした。当時の化粧品は特定の個人のために作られた非常に貴重なもので、その時代の化粧は富と権力の象徴とされていました」

その代表格がフランス国王ルイ14世。化粧はもちろんフリルやレースをふんだんに使った衣装を纏った肖像画は、権力者たる要素が集約されているのだ。

全身を飾り立てたフランス国王・ルイ14世。ハイヒールをはき、自慢の脚線美を見せつけるようなポーズの肖像画。
古代エジプトにも化粧品の痕跡がある。写真はツタンカーメンの黄金のマスク。 画像提供:MykReeve/Wikimedia Commons(CC表示.継承3.0 非移植)

しかし化粧が大衆のものとなると、化粧は男性から女性のものへと変化していく。

「これは労働者階級が生まれて、労働者として働いて家族を養う男性と、家事や育児などのシャドウワーク(報酬を受けない仕事を担う女性)という 近代型のジェンダーロール(性別によって社会から期待される役割)が導入されたことによります」

男性は「よき市民」となるために働くのに適した服装で、仕事の邪魔になる化粧もやめて懸命に働く。一方、女性は 夫の地位をおとしめない程度の「よき身だしなみ」を整えるために、節度のある品の良い化粧が望まれた。

「当時の女性は教育の機会も少なく、参政権など社会に参加することも難しかったことから軽んじられ、化粧も『学も教養もない女がやるもの』と蔑視されるようになりました」

1928年に撮影された、銀座通りを闊歩するモダンガール。

90年代に化粧は再び見直されてきた

軽視されてきた化粧の社会的地位が上がり始めたのは、1990年代だと石田氏。それまで夏の化粧品といえば、サンオイルや焼けた肌を美しく見せるための濃い色のファンデーションなど、日焼けを前提としたラインナップだったが、90年代初頭から美白を全面に打ち出した、日焼けしないための品に代わっていったという。

「シミやシワ、さらには免疫力低下の原因となるなど、紫外線が美容・健康に悪影響を及ぼすことは、今では常識となっています。これが認識され、紫外線から身を守るために化粧は必要だとされ始めたのがこの時代。当時、資生堂に勤めていましたが、『化粧品会社』に対する社会の認識もこの頃から変わったように感じました」

日本に既に高齢化社会が迫っていた当時、化粧は認知症の予防や症状の改善にも有効だと知られるようになり、化粧が心身ともに深く影響を与えることが理解されてきたといえる。

自然科学的な根拠のある化粧品の誕生で、スキンケアなど美容も含めた化粧が性別を問わず広まる。


日本の化粧の変遷100年

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