『DREAMLESS 夢無子写真集』 夢無子インタビュー「生きることは、世界を見ること」

写真集『DREAMLESS 夢無子写真集』を上梓するビジュアルアーティスト・写真家の夢無子さんのインタビューをお届けします。

2019年にキヤノンマーケティングジャパンが主催する写真家のオーディション「SHINES」で受賞した夢無子(むむこ)さんは、住所を持たずカメラ1台、スーツケース1つで世界50カ国以上を旅して写真を撮り続けてきました。2020年に受賞の副賞として写真集の発行を予定していましたが、その後コロナが蔓延し、写真集の制作が止まってしまいました。その後、夢無子さんは日本国内を旅して写真を撮り続けて、今回416ページというボリュームの一冊をつくりました。

夢無子さんの無限とも言うべきパワーの源、そして夢無子さんと写真、そして生き方に至るまで、じっくりとお話しを伺いました。

『DREAMLESS 夢無子写真集』(2022年4月18日発売)

 

−夢無子さん「写真家」になろうと思ったきっかけを教えてください。

夢無子:もともとは映画監督になりたかったの。大学生のときに映画と社会学を勉強していて、卒業後は映像制作プロダクションに入った。5年くらいそこで働いたかな。当時のトップ企業、日本のトップスター、監督や、ときにはハリウッドから人が来たこともあった。そういう人たちと一緒に仕事をしていくなかで、日本でこれ以上できることはもうないなと感じたのね。

自分で何かを作るとしてもまず「自分を育てよう」と思って、植物のように自分が育つのに必要な栄養って何だろうって自分を分析したんだけど、生まれは中国で17歳までいたの。その後は日本に来てから10年経っていたから、中国のアーティストと比べたら10年分中国が足りてないし、そして、日本の理解も足りてない。それだったらもっとミックスしようと思って。

−「夢無子(むむこ)」という名前で活動していますが、この名前の由来を教えてください。

夢無子:私は、中国の重慶で生まれたの。中国名では「木木」と書いて「ムム」と読む名前でムムって呼ばれていたので、日本に帰化するときに、同じ読み方の漢字を探したんです。それで夢と無を選んだんだけど、その二文字だけだと占いではあまりよくなかった。だから子どもでいたいっていう意味も込めて「子」を足して夢無子にしました。

―世界を旅しようと思ったのはなぜですか?

もっと自分を成長させるために、世界をこの目で見たかったの。

そこで、はじめに南米かアフリカに行こうと考えた。実は「中国+日本+アメリカ」ってどこにでもいるんだよね。だから、そこに面白い調味料を入れたいと考えたら南米かアフリカかなって。14歳のときに観た『ブエノスアイレス』ってウォン・カーウァイ監督の映画がすごく好きだったから、ブエノスアイレスに行こうって決めた。世界中の友人たちに「ブエノスアイレスの誰か知らない?」って一斉にメールを送ったら、ニューヨークにいる友人がブエノスアイレスのプロデューサーを紹介してくれて、2017年くらいから南米の旅を始めた。

当時は六本木に住んでいたんだけど、家も引き払って、100〜200足もあったハイヒールや持ち物を全部チャリティに出して、自分の持ち物はスーツケースふたつだけにした。全部は持って行けないから。

実際にブエノスアイレスに住んで自分と向き合ってみて、私は映画監督に向いてないなって思った。映画ってチームワークだし、2〜3年同じ場所から動けないじゃない? 私はもう少し世界を見たかったから、写真の方が向いてると思ったし、真面目に写真を撮ろうと思ったのもそのとき。

ブエノスアイレスに着いた日に撮った一枚。写真集『DREAMLESS 夢無子写真集』より

夢無子:南米だけじゃないけど、危険な目には相当遭った。ブエノスアイレスに住んで、その後ロンドン、トルコに行ったの。イスタンブールではテロにあった。目の前に爆弾があって、みんなで逃げたこともある。シリアが近かったからね。人生で初めて震えたよね。人間はこういう混沌のなかにいると震えるんだと知った。そんななか、あるシリア人の女の子がTwitterで発信しているのを見たの。「いまお父さんが戦地へ出て行った」「お母さんが死んだ」……そのうち更新がなくなって、その子も亡くなったんだと思う。

トルコの後、ドバイに行ったんだけど、ドバイでは裕福なお姉さんがヴィトンのバッグを持って優雅にコーヒーを飲んでた。その後、ブエノスアイレスに戻った。帰りの飛行機の中、黒澤明の映画「乱」を見たことが印象に残っているの。すべての経験がすごすぎて、帰っても1ヶ月くらい家から出られなかった。

それでも、人間って日常を見れば癒されると思うの。寝室からベランダの下に見える、新聞を届ける人、野菜を買うおばさん……そういう景色を見て癒されながら立ち直っていった。

ブエノスアイレスで強盗に襲われる

ブエノスアイレスは治安が悪くて、写真を撮っていたらそれだけで拳銃を向けられることもあった。物盗り相手に戦ったこともあって、相手が怒って殴られたりもした。人生で初めてボコボコに殴られたよ。警察が目の前にあったけどそんなの関係なし。女は男に腕力では勝てないってことも知った。殴られて拳銃を背中につきつけられたとき、銃弾が自分の体を貫く映像が頭の中を流れていった。そして私のカバンの帯が切れて、カバンを盗られたの。家の鍵もパスポートも何もかもなくなった。深夜3時くらいだったかな。靴も壊れてしまって血まみれだったし、どうしようもなくて友だちの家を目指して1時間歩いて帰った。夜中に助けを求めた友だちは、私のことを治療してくれてね。それでブエノスアイレスはもういいかなって、お金に頼らずに生きてみようって思った。

 

フォトグラファーの仕事は「どこまで被写体の心を開くことができるか」

夢無子さんの写真にはある種の“緊張感”と、写っている人々の“素”に近い姿が同時に存在していると思います。

夢無子:旅に出ても、他の旅行者のようにホテルに泊まっていたら、会うのは全部外国人の旅行者だけだよね。でも、私は現地にいる人たちと同じ生活をしたい。そうやってその国を理解して、誰がどういう人生を送っているのか、何に悩んでいるのかを知りたい。それは一緒に暮らさないとわからないと思うし、「相手がカメラを気にしなくなって初めて撮れる」のだと思う。だから、最低でも数ヶ月は関わらないと撮れないよね。フォトグラファーは「どこまでのその人の心を開くことができるか」が大事で、相手のことを知らなければ相手はそういう顔になるし、私のことを信用してくれたら表情が変わっていく。「私と君」の間にあるフィルターを取り除いていくことがいちばんだし、心が動いたらそのときにシャッターを切るだけ。

ボリビアはシルバーの産出地。鉱山で働く人と住んでいた。彼らは20時間以上鉱山に入って働き続けるために、コカ(コカインの原料となる植物)の葉を噛んでいる。食べると排泄物が出るから飲み食いすらしない。幼いころからこうして働き続けるから、命の危険に常にさらされている状態。
ミャンマー。僧侶が作った難民キャンプで撮影した。彼は事故で全身不随になった。日がな一日中天井を見つめているなかで、唯一の遊びはストロー。こういう友達が送ってきた人生がどういうものなのか、どんな悩みがあるのか、知りたいという好奇心が私にはある。
インドネシア東ジャワ州のイジェン山。火が青く見えるのは硫黄ガスが燃焼するときに出す光。こういう場所を坑夫が掘っていくんだけど、ガスマスクもせずに山を登り続けていくから、やはりここで働く人たちも短命。18時間くらい働いてもらえる賃金は日本円で900円程度。私が撮影しているときもマスクさえなく、息をするのも苦しいほどだった。

 

−写真集『DREAMLESS』には前半に海外での作品、後半が日本国内での写真が収録されています。人物の多い海外での作品に対し、国内では自然が多くなるなど、被写体にも変化がありますね。

夢無子:コロナが流行し始めて、緊急事態宣言が出てから何もできることがなくて。私だけじゃなく、全世界が一緒に止まってしまった。そして、写真はあまり撮らなくなった。「SHINES」で受賞したあとに作る予定だった写真集のスケジュールも止まってしまったの。
これまで自分は、ひとつの町に3ヶ月以上住んだことも少ないくらい自由に動いて生きてきたのに、急に生活が変わってしまった。急に閉じ込められたような気がして、このままじゃ自分が病んでしまうと思って、“暇つぶし”に何かやろうと、ヨガをやって体を動かしたり……。

デザイナーのマッチ(町口覚さん)と、最初に考えていた写真集の構成は、「世界各地の写真で作る」という案だったけど、コロナ禍でそのまま出しても意味がなくなっちゃった。そうしたら、マッチから「とにかく写真を撮り続けろ」と言われたの。

青山墓地の近くを散歩して東京タワーが見えるから撮った。緊急事態宣言が出た日だった。これからどれくらい緊急事態宣言なのかわからなくて、全世界が止まったときだった。


夢無子:
6月に緊急事態宣言が明けて、北海道に行った。考えすぎていたから、体を動かそうと思って。人づてに北海道のメロン農家を紹介してもらって、富良野の山奥でおじいちゃんとおばあちゃんの農園で働いた。そこでの仕事は、純粋な仕事だなって思った。人間は汗をかかないと病気になる、今まで脳を使いすぎだって感じた。体を動かせば解決することっていっぱいあると思う。

自然のなかに住むと、植物、動物はみんなハッピーに生きていることがわかったの。人間だけなのよ、こんなに脳ばっかり使ってるのは。だからすごく解放されたの。旅に出たら写真も徐々に撮るようになった。

朽ちていく鹿をみて、コロナの世界がレインボーに変わった

北海道で事故に遭った鹿を見た。鹿は自力で歩いて戻っていったけど、そこで息絶えてしまった。
2日後にその鹿を見に行ったら、もう骨だけになってた。3日後には骨さえなくなっていた。

 

夢無子:この写真は事故に遭った鹿。3日後には骨さえなく無くなって、死んだら栄養になる。リサイクルだよね。すべて回っているんだなって。私は世界を動きまわるために進んでるだけ。これでいいんだって思った。この鹿を見て、すごく解放されたの。最初のコロナのとき、すごく苦しかった。人類、地球のことを考えても答えが出ないし、勝手に考えて勝手に苦しんでしまってた。でも、このシーンを見て解放されたの。コロナの世界がレインボーになったの。答えはここだって思った。それで、このあとも旅を続けた。

写真集の後半の写真には、人は一切出てこない。前半の海外の写真では人が多いんだけどね。現代社会で生きていると人間しか見てなくて、人を撮ってたけど、コロナで視野が広がったと思う。目の前にある人も、人間も、そう、ここにある机でさえもすべて重さが平等になった。目の前に人がいたら、それがメインで後ろにあるものは「背景」になっていたけど、いままで見ていなかったものを見るようになったし、だからクローズアップの撮影も増えたと思う。木を撮ってみると、こんなシワがあるんだなって感じるようになったし、世界が広がった。

屋久島

 

−屋久杉の写真はとてもインパクトがありました。

夢無子:小豆島や直島、鳥取、京都……特に決まりはないから東京から南へ向かって移動していったの。五島列島では漁師さんのところで過ごしたこともある。

屋久島はハードルが高くて、体力があるうちに行かないと、と思って。コロナをきっかけに見ることができるものが増えて、あらゆるものが自分のなかで平等になったから、屋久杉のように何千年と時間を重ねたものの「シワ」がすごくかっこいいと思った。だからものすごく屋久杉を撮影したの。

屋久杉を撮ったとき、ミャンマーの難民キャンプを思い出した。あそこでは、すごい人生を過ごしてきて、軍が来て子どもも殺されてしまって逃げてきた人もいたし、みんな映画みたいなものすごい物語を生きてた。だから「シワ」に力があるの。あれ以来あんなに強いオーラを出している被写体に出会ったことがなかったけど、屋久杉には力があった。

−夢無子さんの生き方そのものが写真以上にドラマチックですね

夢無子:全ての話は夢無子のダラダラ人生の偶然だらけに見えるけど、根本的に私のコアはただ遊んでいるのだと思う。人生が時間潰し、全てはエンタメなの。一番面白い動きを選択しているだけ。私の職業は写真家でもなく、アーティストでもなく「夢無子」です。
「夢無子」にとって、三つのキーワードがあって、『自由、時代性、エンタメ性』。
だから、世界と向き合って、時代の波に乗って、時代から渡された質問に答えていく。全ての残酷や幸せを、エンタメに昇華して社会に提供しようと思う。

月末からウクライナに行こうと思っているけど、正直一枚も写真を撮れなくてもいいの。そこで生で感じた全てのものが私の中に入り込んで、「夢無子」を育てていくだけだと思う。

(聞き手:笠井里香)

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