「美術解剖学」という学問をご存知でしょうか。医学の解剖学とは異なり、骨格と筋肉について研究し、構造や動きを知ることで美術制作に活かす学問です。小田隆氏は、著書の「美しい美術解剖図」の中で、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画や彫刻など、過去の名作をもとに美術解剖図を描き、絵画や造形などを美術作品を制作する人のために、肉体の構造を詳しく分析、解説しています。
本記事では、カラヴァッジョが制作した「愛の勝利」からキューピッドの美術解剖図をご紹介します。
愛の勝利
カラヴァッジョが制作した油彩で、極めて精緻な筆致により描かれている。ベルリンの絵画館で学生時代に見た時の衝撃は、今でもよく覚えている。
天使とよく混同されるがキューピッドはローマ神話に登場する愛の神である。ただし、ここでは同じビジュアルイメージを持った存在として扱うこととする。架空の存在であるキューピッドをカラヴァッジョは実在のモデルを使って描いており、解剖学的な解釈も正確である。
全身骨格図
全身筋肉図
大人と子どもの頭骨比較
大人 | 子ども |
大人 | 子ども |
人体に翼を生やすことは可能か?
天使の翼を考察してみる。カラヴァッジョの『愛の勝利』は正確にはキューピッドなので天使ではないが、翼を持った人体という共通点から話を進めてみたい。この絵では肩甲棘の一部に関節を作り、さらに鳥のように肩甲骨を伸ばしてみた。ただ、このような構造では羽ばたくための筋肉をつけるスペースがまったくない。少し動かすぐらいのことはできるかもしれないが、ただ飾りのようにそこに存在するだけだろう。もし、羽ばたけたとしても、鳥との大きな違いは、翼の根元の関節が安定しないことである。鳥の肩関節は烏口骨を介して胸骨としっかり繋がっており、V字型の叉骨が左右の烏口骨および肩甲骨と関節している。鳥の飛翔において重要なことのひとつは左右の肩関節の位置が常に一定であることである。左右の位置が羽ばたくたびに動いてしまっては、安定した飛翔は生み出せない。人間の鎖骨はある程度の動きを制限しているが、肩関節の位置は左右別々にかなり自由に動かすことができる。
翼の構造
今回の考察では人間の肩甲骨の肩甲棘から鳥の肩甲骨を伸ばし、肩関節を形成してみた。
これまでよく描かれたり作られてきた天使の翼の位置には適当であるが、人間の肩甲骨の動きと同様に左右の位置が決まれないことが、最大のデメリットである。飛翔している途中で腕のポーズを変えてしまっては(天使であれば楽器を演奏しようとしたと同時に、キューピッドであれば弓矢を構えたと同時に)、たちまち墜落するだろう。
生物学的な天使の構造
脊椎動物のボディパターンは頭がひとつ、手足の合計が4本というのが基本である。現在の脊椎動物のボディプランに則って生物学的に正しく描こうとすると、決して格好良くも美しくもないものになってしまうのは、いたしかたないところだろうか。
翼を強く羽ばたかせるためには、強大で強靭な胸筋が必要となる。鳥は胸骨に竜骨突起という部分を発達させることによって、筋肉の付着部分を増大させている。
ダチョウやエミューなどの地上を走る走鳥類には胸骨はあるが、竜骨突起は退化してしまっている。その胸骨の形態から彼らは平胸目とも呼ばれる。この竜骨突起をつけると極端な鳩胸となり、乳房は左右に離れてつき、胸の谷間を形作ることは不可能になる可能性が高い。鎖骨は胸骨からは独立し左右が繋がって叉骨になる。肩甲骨は鳥のような長くブレード状の形に変化するだろう。ただ、たとえ巨大で羽ばたける翼があったとしても、それ以外の部分の形は人間のままであり、バランスよく飛翔することは困難であることが予測される。
やはり架空の生物として、美しい姿を人間の想像力の範疇におさめておくのが良いかもしれない。
<玄光社の本>
クリックするとAmazonサイトに飛びます